とうとう今回でローマ編も最終回。
五賢帝から帝国の崩壊までの怒涛の展開を、
一気に攻略しちゃいましょう。
パクス=ロマーナ
五賢帝
ローマ帝国は繁栄し、
とくに五賢帝のときに絶頂期を迎え、
パクス=ロマーナ(ローマの平和)を実現します。
その五賢帝とは、
①ネルウァ、②トラヤヌス、③ハドリアヌス、
④アントニウス=ピウス、
⑤マルクス=アウレリウス=アントニヌス
です。

とくに最後、長すぎにゃ

大丈夫!
5人まとめて50回位ずつ暗唱すれば
自然と覚えるよ。
ちなみにこの5人目の人、
「大秦王安敦」
っていう中国の漢王朝からの呼称もあるうえ、
文化史的功績も遺したため
「哲人皇帝」の異名もあるという、
受験世界史において呼称の文字数最大の
実に受験生泣かせの人だから
しっかり覚えるんだよ⭐
トラヤヌス帝のときに領土は最大となります。
ヨーロッパ・アジア・アフリカの3大陸にまたがり、
あの広い地中海を内海としつつ、
ブリテン島(今のイギリス)やダキア(今のルーマニア)、
メソポタミアにまで及びました。
文化
言語
ローマ人は東方に普及していたギリシア語(準公用語)をもとに
ローマ字をつくり、帝国内にラテン語を公用語として普及させます。

ローマ帝国が普及させたラテン語は、
これ以降ヨーロッパの学術用語や宗教用語などとして使用され続けます。
また、特に傑出したローマの文化遺産といえば、
①法②建築
の実学です。
法
①については、近代法にまで影響している
ローマ法を遺します。
思えば、十二表法にはじまり、
古代のわりに多様な法がありましたね。
史上初めて法学を生んだのもローマです。
また当時としては先進的だったのは、
帝国内の(ラテン人のみならず)
全民族に共通の万民法が意識されたことです。
この背景には、
帝国の拡大と普遍化、ローマ市民権の拡大、
ヘレニズムのコスモポリタニズムの影響
などがありました。

ギリシア人は哲学・文学・美術などの
高度な精神性を誇る文化を遺しましたが、
ローマは実用性重視で実学ばかりが発展し、
精神性の高い文化はギリシアを模倣したにすぎませんでした。
建築
ローマは土木建築も優れていました。
円形闘技場コロッセウム、パンテオン(神殿)、
カラカラ浴場、コンスタンティヌス帝の凱旋門など
さまざまな壮大な公共建築が都市につくられ、
皇帝の権威を象徴しました。
またアッピア街道などのローマ道や
水道も帝国中で発達しました。
「ローマの平和」のなか、帝国中を網羅したローマ道をつうじて
人々はさかんに帝国中を行き来します。
これにより文化も入り交じり、
ギリシア・ローマの融合した都市風文化が広まりました。
暦
また前回説明したとおり、
今日のグレゴリオ暦のほぼそのままの原型の
ユリウス暦も生みました。
経済
人の往来の活性化に影響されるのは、
文化だけではありません。
経済もさかんになります。
また帝国内のみならず、
アジア中の諸外国とも
季節風貿易・隊商貿易をさかんに行いました。
また好景気のなかで、
軍団駐屯地にすぎなかった各地が
ウィーン・パリ・ロンドン
などのローマ風都市に成長しました。
帝国中に、
ラテン語・ローマ風都市・都市的文化
といった共通性が生まれていったのです。
今でいうグローバリズムですね。
3世紀の危機

ローマすごすぎにゃ
こりゃ1000年は安泰だにゃ
盛者必衰。
大帝国ローマにも暗雲☁が立ち込めます。
トラヤヌス帝(位98~117)は版図を最大にしましたが、
最大とは裏を返せば、限界ということです。
維持できる限界の領域を抱えた
ハドリアヌス帝(位117~138)は守勢にならざるを得ず、
メソポタミアなどを放棄したり、
ハドリアヌスの長城というドデカい壁を建設したりします。
この時とくにローマを苦しめたのは、
クラッススも戦死させたパルティア(前248~224)や
パルティアの後釜のササン朝ペルシア(224~651)、
そしてゲルマン人の侵入でした。
このほか、
疫病や財政難といったお決まりの苦しみ方もします。
イケイケ時代の侵攻戦なら
土地も戦利品もガッポガッポ手に入りましたが、
今はしみったれた防衛戦ゆえ、
ほぼ何も得られずただ守るだけです。
戦費だけが膨らんでゆきました。
こうしてローマは3世紀には混乱期をむかえ(「3世紀の危機」)、
セプティミウス=セウェルス帝(位193~211)は経済統制と軍拡を、
カラカラ帝(位211~217)は
帝国内の全自由民(つまり奴隷以外)にローマ市民権を与え、
安定化を図りました。

どうもピントのズレた対策だにゃ
案の定事態は解決せず、
長々ネームおじさん・マルクス=アウレリウス=アントニヌスの没後、
帝位争奪戦は激化し、
混乱にともない軍事力(腕っぷし✊)が偏重されるなか、
3世紀半ばからは軍団ごとに皇帝を乱立させる
軍人皇帝の時代をむかえます。
ウァレリアヌス帝にいたっては、
ササン朝ペルシアのシャープール1世に敗れて
捕虜となる有様でした。

ローマ皇帝・・堕ちたにゃ
専制君主政
しかし、さすがはローマ。
こんなものでは滅びません。
ディオクレティアヌス帝(位284~305)
皇帝の神格化と中央集権化により帝国を安定させたのが、
ディオクレティアヌス帝👨です。
👨「皇帝は神!それ以外は臣民として跪けぃ!」(皇帝の神格化)
(このためキリスト教は大迫害)
👨「行政区分も税制も物価も地方行政もすべてコントロールじゃ!」(中央集権化)
とオリエントの専制君主のように振舞います。
以後ローマは専制君主政(ドミナートゥス)となります。
また👨は、
広ーーーーーい帝国を効率的に統治するため、
正帝・副帝を2人ずつ置く
四分統治制(テトラルキア)
を採用しました。
コンスタンティヌス帝(306~337)
後継のコンスタンティヌス帝は
さっそくテトラルキアをやめて独裁となります。
またまた先帝に逆らい
ミラノ勅令によりキリスト教を公認しました。
すっかり広がっていたキリスト教を、
ガタつく帝国をむすぶ精神的支柱として利用したのです。
彼は徹底していて、
伝統宗教の残る(上にすでに名目的首都の)ローマからの
遷都までしてしまいます。
彼は海の要衝ビザンティオンに目をつけ、
キリスト教的新都として、自分の名を冠した
コンスタンティノープルへと遷都しました。
この西→東への遷都で、
帝国の東西分離の傾向は強まります。
また、ローマは今となってはすっかり
専制君主がガチガチに国民を縛る国家です。
農業小作人(コロヌス)は法的に土地に縛られるなど、
自由のない固定化した社会になってしまいました。
戦争奴隷が手に入りづらくなったことで、
その代わりの労働力にさせられたのです。
帝国崩壊
4世紀後半には、
ササン朝の侵攻にともないユリアヌス帝が戦死したり、
ゲルマン人の大移動が起きたり、
帝国各地で反乱が続発したりと、
ボロッボロのボロッボロになります。
こうしたなか、
テオドシウス帝(位379~395)は
死に際して、帝国を東西に分割して2子に継承させました。
以後帝国は2度と統一されず、
東西分裂は決定づけられました。
こうして西・東は別々の道を歩みます。
西ローマ帝国(395~476)
西ローマ帝国はあっという間に滅んでしまいます。
大挙して押しかけるゲルマン人に対し、
ローマ帝国は元来、
平和的に移住させて労働力としたり、
傭兵として利用したりしていましたが、
そのゲルマン人傭兵隊長オドアケルによって、
西ローマ帝国は滅ぼされてしまいました(476)。
東ローマ帝国(395~1453)
全く違う歴史をたどったのが、
東ローマ帝国です。
こちらはゲルマン人の侵入をあまり受けることがなく、
都コンスタンティノープルを中心に繁栄し
1000年以上続きます。
さて、おつかれさまでした。
これにて古代ローマ史は攻略完了です。
さあ、つづけてどんどん他国史も攻略しちゃいましょう!!
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