剥がれる英雄の仮面
身勝手の極み
英雄ナポレオンはやりたい放題の極みでした。
圧倒的な軍事的才能で、
その傍若無人ぶりを押し通せていたのです。
エジプトに何万人もの部下を置き去りにしたり、
ハプスブルク家と婚姻関係をもつために
奥さんと離婚💔したり・・
自分の人気確保のためにイギリスなど各地に侵略したのも、
思えばかなり自分勝手です。

なんて卑劣なんだにゃ
そんなナポレオンの卑劣さが経済面で現れたのが、
大陸封鎖令でした。
大陸封鎖令
ナポレオン👑は最後まで立ちはだかるイギリスを屈服させるため、
ヨーロッパ大陸のあらゆる国に対して
イギリスや英領植民地との貿易・通信を禁止します(大陸封鎖令)(1806)。
当時イギリスは列国に先駆けて産業革命が進展しており、
大量生産された安価なイギリス製品は
ヨーロッパ諸国に浸透し、
生活・産業に密着していました。
しかしそんな経済システムには、
ナポレオンはお構いなし。
このように、ナポレオンの都合のため
ヨーロッパ全土の経済を破壊したのが
大陸封鎖令なのです。
👑「イギリス圧迫できるし、
空いた大陸市場にフランス製品売りつけられるし、
一石二鳥だわ」
露普墺「イギリスから買えないのツラすぎ・・
フランス製品高いんだよなあ・・
でもナポレオンに目つけられたくないから逆らえないし・・
せめてウチの穀物はイギリスの代わりに買ってくれますよね・・?」
👑「いや、いらんよ。ウチ農業国だから自給できるし」
露普墺「・・・・・・やってられっか!!」
反抗
皮肉アイロニー
自由・平等の精神のもと進展したフランス革命の結果、
ナポレオンの帝政は誕生しました。
しかしナポレオンが各地を征服した結果、
むしろその自由・平等の革命精神までも
征服地に広めてしまい、
「ここは俺たちの国だ!ナポレオン帝国じゃねえ!」と、
ナポレオンに反抗するナショナリズムが高揚
してしまうという皮肉なことがおきました。
プロイセンの改革
ナポレオン支配下のプロイセンでは、
シュタイン・ハルデンベルクらが
農奴解放、都市自治といった改革を行ったり、
フンボルトが教育改革をしてベルリン大学を創設したり、
フィヒテが「ドイツ国民に告ぐ」という講演で
ドイツ人のナショナリズムを鼓舞したりして、
ナポレオンに対抗しようと様々な改革を行いました。
スペイン
太陽王🌞以来ブルボン朝が治めていたスペインでは、
ナポレオン時代にはブルボン朝にかわり
ナポレオンの兄が王となっていました。
しかしここで大反乱がおき、
「半島戦争」(1808~1814)と称されるほどナポレオンを苦しめます。
ロシアの反抗
ロシアのアレクサンドル1世は、
とうとう思い切ります。
ロシア穀物が売れず、
イギリスから生活必需品を買うこともできず困り果て、
とうとう大陸封鎖令を破り、
イギリスとの貿易を再開したのです(1812)。

ナポレオンに逆らって大丈夫なのかにゃ・・?

もちろん無策でこんな反抗はできない。
ロシアには、あるとんでもない作戦があったんだ。
ナポレオン帝国の崩壊
ロシア侵入
反抗したロシアに対し、
ナポレオンはなんと60万もの軍勢を差し向けます(1812)。
天才が率いる大軍勢に
真っ向から立ち向かっても勝てるはずがありません。
そこでロシアは、
肉を切らせて骨を断つ作戦を断行します。
その作戦とは、以下の通りです。
まずロシア軍は、あえて戦闘を避け、
自ら穀物を燃やし建物を破壊しながら、
ロシア奥深くへと後退します。
これを追うナポレオン軍は、
モスクワを占領しました(1812.9)。

結局負けてるじゃないかにゃ!

いやいや、
実はこれがロシアの罠だったんだ
モスクワまで占領したはいいものの、
占領地はすでに焦土と化しています。
ロシアが極寒の国☃であることはナポレオンも知っていましたから、
ロシア侵入も夏に始まったのですが、
なにせ広-------いロシアでの戦いなので、
モスクワを占領した時点ですでに9月半ばでした。
そうです。
ナポレオン軍は意気揚々と進軍し、
ロシア奥深くまで侵入するうち、
ふと気が付けば
食糧も宿泊所もない極寒の陸の孤島に
取り残されそうになっていたのです!
仕方なくナポレオンは、
ボロボロになりながら撤退しました。
こうしてロシアは、
その広大な領土と過酷な環境を利用した
焦土作戦と冬将軍作戦☃とによって、
ナポレオン軍を破滅させたのです。

ちなみにナポレオンはこの撤退時も
軍を置き去りにして真っ先に帰還しました。

どこまでも卑劣だにゃ
ナポレオン帝国の崩壊
このナポレオンの大敗を機に
英・普・墺・露・スウェーデンは
第4回対仏大同盟を結成します。
大同盟軍の速攻にさすがのナポレオンも対抗できず、
ライプチヒの戦い(1813.10)
で決定的な敗北を喫します。
こうしてパリは同盟軍に占領され、
ナポレオンはエルバ島へと島流しされました。

ちなみにナポレオンさん、
同盟軍がパリを占領した後に、
息子に帝位を丸投げしようとしました。

・・・・・・
「百日天下」
フランスではルイ18世のブルボン朝が復活しますが、
あまりに反動的過ぎて、
国民から大ブーイングを食らっていました。
またナポレオン戦争後の講和会議である
ウィーン会議も
「会議は踊る、されど進まず」
という言葉が残っているように、
列国の利害が入り乱れて全く話が進みませんでした。
こうした鬱屈した状況のなか、
「私がきた」👑
とでも言わんばかりにナポレオンはエルバ島を脱出し、
あっという間にフランス帝位を取り戻します(1815)。
しかしながらナポレオンは、
新たに結成された第5回対仏大同盟に
ワーテルローの戦いで敗れ(1815)、
今度は南大西洋の孤島セントヘレナ島
に監禁されてしまいました。
こうしてナポレオンのセカンドチャレンジは
「百日天下」に終わり、
結局セントヘレナ島にて
生涯を終えたのでした(1821)。
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