
~前回のあらすじ~
聖職者・貴族に虐げられていた
平民(第三身分)は、
ルイ16世に圧力をかけ、
憲法制定国民議会の開設を認めさせたにゃ
革命勃発!!
バスティーユ牢獄襲撃
特権階級もやられっぱなしではありませんでした。
気弱なルイ16世に圧力をかけ、
ヴェルサイユに軍隊を集結させ、
第三身分ゆえ国民に人気だった財務長官ネッケルも罷免します(1789.7.11)。
この仕打ちに民衆の怒りは大爆発します。
こうしてネッケル罷免の3日後に起こったのが
バスティーユ牢獄の襲撃(1789.7.14)
です。
この騒乱は全国に波及し、
農民が貴族・領主などを襲う事件が多発します。
「革命」
民衆の大暴れの激しさは、
国民議会すらも戸惑うレベルでした。
事態収拾のためにも国民議会は、
①封建的諸特権の廃止(有償)の宣言(1789.8.4)
②人権宣言の採択(1789.8.26)
を次々と行いました。
封建的諸特権の廃止
中世をつうじて、特権身分の第三身分からの搾取は、
「伝統」であり「当たり前」だと信じ込まれていました。
しかし!!それがまさにこの瞬間に
「ある程度のお金さえ払えば金輪際無くなる」
と宣言されたのです。
これは極めて革命的なことであり、
宣言の夜は異常な熱狂に包まれていました。
人権宣言
自由主義貴族ラ=ファイエットが起草した
「人間と市民の権利の宣言」
すなわち「人権宣言」は、
ロックによる抵抗権の思想、
ルソーの社会契約説、
モンテスキューの権力分立論
などの啓蒙思想の英知が結集したものでした。
具体的規定は、
・人間の自由と平等
・国民主権
・三権分立
・言論・出版の自由
・圧政への抵抗権
・私有財産の神聖不可侵
などの、極めて先進的なものばかりであり、
フランス革命のみならず近代市民社会の
基本原則となったものでした。

ラ=ファイエットとやら・・・
まさかここまでの男とはにゃ・・・
立憲君主制の成立
女性のエネルギー
ただし、人権宣言はあくまでも「宣言」です。
立法のためには主権者たる国王ルイ16世の
認可が必要でしたが、
「いや、さすがにダメ」
と、認可を拒否しました。
そんな折・・
混乱と不作によるインフレで
民衆は生活苦に陥っていました。
すると、何千人もの女性👭👭👭が武器を持って
ヴェルサイユ宮殿に殴りこみました⚔(ヴェルサイユ行進)(1789.10.5)。
この圧力に押されたルイ16世は
人権宣言を認可し、
さらにパリのテュイルリー宮殿に連れ戻され、
パリ市民の監視下に置かれるようになりました。

ルイ16世・・
王様なのに、
いっつも圧力をかけられているにゃ

イケイケの先々代の太陽王🌞ルイ14世と違い、
気弱で温厚なルイ16世は、
太陽というよりはヒマワリ🌻のような人でした。
国民議会
一方そのころ国民議会は、
1789~91の3年間に、
人権宣言に基づく改革を行いつつ、
ギルドを廃止したり、
公債アッシニアを発行して財源としたり、
度量衡を統一してあのメートル法を採用したりしました。
王の逃亡
革命が急進化するなか、
特権階級は続々と国外亡命していました。
「囚われの王」ルイ16世🌻も、
やはり不安を募らせていました。
そして1791年、
王と議会との調整をしていくれていた
ミラボーが病死すると、
「もうムリ・・・」と、
とうとうプッツンしてしまった🌻は、
王妃マリ=アントワネットの母国である
オーストリアへの亡命をはかり
こっそりパリから逃亡します。
しかし国境付近のヴァレンヌで見つかり、
パリに連れ戻されました(ヴァレンヌ逃亡事件)(1791.6)。
こうして🌻の権威は失墜しました。
ただ、
「明日は我が身」と革命の波及を恐れた
プロイセン国王とオーストリア皇帝が
「🌻の地位を奪ったら戦争をしかけるよ⭐」と
フランス国民を脅迫するピルニッツ宣言を出したため(1791.8)、
🌻はなんとか国王の地位を維持することができました。
憲法制定
前回説明した通り、
おなじ平民でも一枚岩ではありません。
割と穏健に、必要な手順を踏みつつ
王政から共和制へと移行させている
国民議会に対し、
農民やサンキュロットは
なんでもかんでも急進的に考えて
事態をむやみに混乱させる恐れがありました。
そこで国民議会は急ピッチで
立憲君主制を定めた憲法を制定しました(1791.9)。
この1791年憲法により、
一定額以上の納税者であれば
第三身分にも選挙権が認められ、
王権🌻も大幅に縮小されました。
立法議会
右翼と左翼
新憲法下の選挙により、
立法議会が成立します(1791.10)。
この立法議会は、
フイヤン派とジャコバン派とに分かれていました。
フイヤン派
フイヤン派は、
フイヤン=クラブを背景とする立憲君主派で、
つまり
「1791年憲法に従うなら🌻は国王でいていいよ」
という穏健派でした。
フイヤン派の中心人物は
先述のラ=ファイエットやバルナーヴです。
ジャコバン派
ジャコバン派は共和政、
つまり🌻の廃位と王政そのものの廃止を主張しました。
ただこの中でもさらに、
支持基盤の人々の違いによって、
穏健派と急進派とに分かれます。
つまり、中産市民層の代表は、
ジャコバン派のなかでは穏健派で、
のちジロンド派として分離するのですが、
小市民の代表である
マラー、ダントン、そしてロベスピエール
らはさらに急進派で、
山岳党とも呼ばれました。

ちなみに、
立法議会における議席の位置が
やや体制寄りのフイヤン派は右側、
より反体制的なジャコバン派は左側
だったことが、
体制派を右翼、反体制派を左翼
と呼ぶことの由来となりました。
革命戦争の勃発
革命はとうとうフランス国内をこえて、
外国との戦いにまで発展します。
対外戦争に最も積極的だったのは
ジロンド派(フイヤン派と山岳党との中間)でした。
🌻の「戦争に勝てば王の威信が高まるし、
戦争に負ければ革命が崩壊するじゃん!」
という目論見もあって
ジロンド派内閣は革命強化のため、
ピルニッツ宣言で革命を脅かした
オーストリアに宣戦布告します(1792.4)。
王権の停止
しかし🌻の目論見は見事に外れてしまいます。
王権が停止されてしまったのです。

一体・・どういうことだにゃ!?
革命派と反革命派の入り交じったフランス軍は
バラバラ状態でおおいに苦戦し、
逆にプロイセン・オーストリア同盟軍に
国境を脅かされてしまいます。
これを受け、立法議会は
「祖国の危機」を宣言し(1792.7.11)、
全国から義勇兵を募りました。

このときマルセイユの義勇兵たちが歌っていたのが、
いまのフランス国歌
『ラ・マルセイエーズ』です。
実はこの革命戦争において、
王妃マリ=アントワネットは革命崩壊をはかって
なんと敵軍と内通していました。
これに勘づいたパリ市民・義勇兵は
🌻と王妃のいるテュイルリー宮殿を襲撃し、
衛兵を惨殺しました(1792.8.10)(8月10日事件)。
そして、
この時パリの実権をにぎったコミューンによって、
「反革命者」とされた人々への虐殺事件
も起きました(1792.9.2~9.6)(「九月虐殺」)。
一方、革命軍はヴァルミーの戦いを機に
形勢を逆転させ、
とうとう勝利を収めます。
この革命軍で活躍し、
8月10日事件で革命的コミューンを成立させていたのが、
サンキュロット(下層市民で急進的)
でした。
そしてこのサンキュロットが威勢を高めるのに伴い、
彼ら下層市民を支持基盤とする山岳党も
威勢を高めていくのです。
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