西欧史(英仏伊西蘭など) 高校世界史

【世界史】フランス史をマンガみたいに超速攻略!⑥革命勃発!立憲君主制編

この記事は約8分で読めます。

 

 

マロ
マロ

~前回のあらすじ~

 

聖職者・貴族に虐げられていた

平民(第三身分)は、

 

ルイ16世に圧力をかけ、

憲法制定国民議会の開設を認めさせたにゃ

革命勃発!!

 

バスティーユ牢獄襲撃

 

特権階級もやられっぱなしではありませんでした。

 

気弱なルイ16世に圧力をかけ、

ヴェルサイユに軍隊を集結させ、

第三身分ゆえ国民に人気だった財務長官ネッケルも罷免します(1789.7.11)。

 

この仕打ちに民衆の怒りは大爆発します。

 

こうしてネッケル罷免の3日後に起こったのが

バスティーユ牢獄の襲撃(1789.7.14)

です。

 

この騒乱は全国に波及し、

農民が貴族・領主などを襲う事件が多発します。

 

「革命」

 

民衆の大暴れの激しさは、

国民議会すらも戸惑うレベルでした。

 

事態収拾のためにも国民議会は、

①封建的諸特権の廃止(有償)の宣言(1789.8.4)

②人権宣言の採択(1789.8.26)

を次々と行いました。

 

封建的諸特権の廃止

 

中世をつうじて、特権身分の第三身分からの搾取は、

「伝統」であり「当たり前」だと信じ込まれていました。

 

しかし!!それがまさにこの瞬間に

「ある程度のお金さえ払えば金輪際無くなる

と宣言されたのです。

 

これは極めて革命的なことであり、

宣言の夜は異常な熱狂に包まれていました。

 

人権宣言

 

自由主義貴族ラ=ファイエットが起草した

間と市民の利の宣言

すなわち「人権宣言」は、

 

ロックによる抵抗権の思想、

ルソー社会契約説

モンテスキュー権力分立論 

 

などの啓蒙思想の英知が結集したものでした。

 

具体的規定は、

 

・人間の自由と平等

・国民主権

・三権分立

・言論・出版の自由

・圧政への抵抗権

・私有財産の神聖不可侵

 

などの、極めて先進的なものばかりであり、

 

フランス革命のみならず近代市民社会の

基本原則となったものでした。

 

マロ
マロ

ラ=ファイエットとやら・・・

まさかここまでの男とはにゃ・・・

 

立憲君主制の成立

 

女性のエネルギー

 

ただし、人権宣言はあくまでも「宣言」です。

 

立法のためには主権者たる国王ルイ16世

認可が必要でしたが、

「いや、さすがにダメ」

と、認可を拒否しました。

 

そんな折・・

混乱と不作によるインフレで

民衆は生活苦に陥っていました。

 

すると、何千人もの女性👭👭👭が武器を持って

ヴェルサイユ宮殿に殴りこみました⚔(ヴェルサイユ行進)(1789.10.5)。

 

この圧力に押されたルイ16世は

人権宣言を認可し、

 

さらにパリのテュイルリー宮殿に連れ戻され、

パリ市民の監視下に置かれるようになりました。

 

マロ
マロ

ルイ16世・・

王様なのに、

いっつも圧力をかけられているにゃ

 

ヤマ
ヤマ

イケイケの先々代の太陽王🌞ルイ14世と違い、

気弱で温厚なルイ16世は、

太陽というよりはヒマワリ🌻のような人でした。

 

国民議会

 

一方そのころ国民議会は、

1789~91の3年間に、

人権宣言に基づく改革を行いつつ、

 

ギルドを廃止したり、

公債アッシニアを発行して財源としたり、

度量衡を統一してあのメートル法を採用したりしました。

 

王の逃亡

 

革命が急進化するなか、

特権階級は続々と国外亡命していました。

 

「囚われの王」ルイ16世🌻も、

やはり不安を募らせていました。

 

そして1791年、

王と議会との調整をしていくれていた

ミラボーが病死すると、 

 

「もうムリ・・・」と、

とうとうプッツンしてしまった🌻は、

 

王妃マリ=アントワネットの母国である

オーストリアへの亡命をはかり

こっそりパリから逃亡します。

 

しかし国境付近のヴァレンヌで見つかり、

パリに連れ戻されました(ヴァレンヌ逃亡事件)(1791.6)。

 

こうして🌻の権威は失墜しました。

 

ただ、

「明日は我が身」と革命の波及を恐れた

プロイセン国王オーストリア皇帝

 

「🌻の地位を奪ったら戦争をしかけるよ⭐」と

フランス国民を脅迫するピルニッツ宣言を出したため(1791.8)、

 

🌻はなんとか国王の地位を維持することができました。

 

憲法制定

 

前回説明した通り、

おなじ平民でも一枚岩ではありません

 

割と穏健に、必要な手順を踏みつつ

王政から共和制へと移行させている

国民議会に対し、

 

農民やサンキュロット

なんでもかんでも急進的に考えて

事態をむやみに混乱させる恐れがありました。

 

そこで国民議会は急ピッチで

立憲君主制を定めた憲法を制定しました(1791.9)。

 

この1791年憲法により、

一定額以上の納税者であれば

第三身分にも選挙権が認められ、

 

王権🌻も大幅に縮小されました。

 

立法議会

 

右翼と左翼

 

新憲法下の選挙により、

立法議会が成立します(1791.10)。

 

この立法議会は、

フイヤン派ジャコバン派とに分かれていました。

 

フイヤン派

 

フイヤン派は、

フイヤン=クラブを背景とする立憲君主派で、

つまり

「1791年憲法に従うなら🌻は国王でいていいよ」

という穏健派でした。

 

フイヤン派の中心人物は

先述のラ=ファイエットバルナーヴです。

 

ジャコバン派

 

ジャコバン派は共和政

つまり🌻の廃位と王政そのものの廃止を主張しました。

 

ただこの中でもさらに、

支持基盤の人々の違いによって、

穏健派と急進派とに分かれます。

 

つまり、中産市民層の代表は、

ジャコバン派のなかでは穏健派で、

のちジロンド派として分離するのですが、

 

小市民の代表である

マラーダントンそしてロベスピエール

らはさらに急進派で、

山岳党とも呼ばれました。

 

 

ヤマ
ヤマ

ちなみに、

立法議会における議席の位置

 

やや体制寄りのフイヤン派は右側

より反体制的なジャコバン派は左側

 

だったことが、

体制派を右翼、反体制派を左翼

と呼ぶことの由来となりました。

 

革命戦争の勃発

 

革命はとうとうフランス国内をこえて、

外国との戦いにまで発展します。

 

対外戦争に最も積極的だったのは

ジロンド派(フイヤン派と山岳党との中間)でした。

 

🌻の「戦争にてば王の威信が高まるし、

戦争にければ革命が崩壊するじゃん!」

という目論見もあって

 

ジロンド派内閣は革命強化のため、

ピルニッツ宣言で革命を脅かした

オーストリアに宣戦布告します(1792.4)。

 

王権の停止

 

しかし🌻の目論見は見事に外れてしまいます。

 

王権が停止されてしまったのです。

 

マロ
マロ

一体・・どういうことだにゃ!?

 

革命派と反革命派の入り交じったフランス軍は

バラバラ状態でおおいに苦戦し、

 

逆にプロイセン・オーストリア同盟軍に

国境を脅かされてしまいます。

 

これを受け、立法議会は

「祖国の危機」を宣言し(1792.7.11)、

全国から義勇兵を募りました。

 

ヤマ
ヤマ

このときマルセイユの義勇兵たちが歌っていたのが、

いまのフランス国歌

『ラ・マルセイエーズ』です。

 

実はこの革命戦争において、

王妃マリ=アントワネットは革命崩壊をはかって

なんと敵軍と内通していました。

 

これに勘づいたパリ市民・義勇兵は

🌻と王妃のいるテュイルリー宮殿を襲撃し、

衛兵を惨殺しました(1792.8.10)(8月10日事件)。

 

そして、

この時パリの実権をにぎったコミューンによって、

「反革命者」とされた人々への虐殺事件

も起きました(1792.9.2~9.6)(「九月虐殺」)。

 

一方、革命軍はヴァルミーの戦いを機に

形勢を逆転させ、

とうとう勝利を収めます。

 

この革命軍で活躍し、

8月10日事件で革命的コミューンを成立させていたのが、

サンキュロット(下層市民で急進的)

でした。

 

そしてこのサンキュロットが威勢を高めるのに伴い、

彼ら下層市民を支持基盤とする山岳党

威勢を高めていくのです。

 

次号、フランス史⑦第一共和政と恐怖政治編!

コメント

タイトルとURLをコピーしました