西欧史(英仏伊西蘭など)

【世界史】フランス史を濃密なのに超速攻略!⑩

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今回はフランス史⑩

ナポレオン以後の時代です。

 

強大なナポレオン帝国の崩壊後の60年間

フランスでは目まぐるしく国家体制が変わります。

 

ブルボン復古王政→七月王政→第二共和政→第二帝政→第三共和政

という変遷が、わずか60年間で繰り返されました。

 

マロ
マロ

革命後もフランスは

なかなか安定しなかったってことだにゃ

 

革命の反動

 

ウィーン会議

 

ナポレオンがエルバ島に流されてから、

革命後の国際関係を調整するために

ウィーン会議が開かれました(1814.9~1815.6)

 

これは前回も話した通り、

「会議は踊る、されど進まず」

といわれるほど停滞しましたが、

 

フランスから参加したタレーランが主張した、

正統主義(革命以前の領土・主権こそが正統)と

勢力均衡との2原則のもと各国は一致し、

 

ナポレオンの「百日天下」が大詰めになってから

ようやくウィーン議定書が成立しました。

 

これにより、

フランス・スペイン・ナポリ

ブルボン朝が復活します。

 

ブルボン復古王政(1814~30)

 

ルイ18世(位1814~24)

 

復活したブルボン朝のルイ18世は反動的で、

制限選挙制など反動的な政治を行います。

 

また英・露・墺・普による

反革命的・反動的な四国同盟に加わり、

五国同盟を結成しました。

 

シャルル10世(1824~30)

 

つぎのシャルル10世さらに反動的でした。

 

彼は国民の不満をそらすために

アルジェリア出兵を行いますが、

 

議会を解散するなど絶対王政期のような振る舞いをしたことで、

七月革命を起こされて亡命、退位します(1830)。

 

こうしてせっかく復活したブルボン朝は、

復活直後に再び崩壊してしまいました。

 

七月王政(1830~48)

 

妥協の王政

 

七月革命で帝位についたのは、

オルレアン家の自由主義者ルイ=フィリップでした。

 

こうして成立した七月王政は、

革命を起こした共和派と立憲君主派双方の妥協のもと、

ブルボン復古王政よりは緩い制限選挙制の立憲君主政

となりました。

 

しかしこれも、

以下のようなさまざまな国民の不満によって、

すぐに打倒されてしまうのです。

 

労働運動・社会主義運動

 

当時のフランスは産業革命が進展していたのですが、

その際、資本家(ブルジョワ)労働者(プロレタリアート)

を抑圧しながら私腹を肥やしていたため、

 

資本家VS労働者の対立、すなわち

階級闘争が高まってきました。

 

そんな中、ルイ=フィリップは

「ブルジョワの王」と称されるほど

ブルジョワ寄りで、

 

もともとサンキュロットとして

急進的に革命を進めてきた(つもりの)労働者は、

選挙権も奪われたまま日陰に追いやられました。

 

こうして労働者が圧迫されるなか、

労働者の権利拡大をもとめる労働運動や、

 

労働者を資本家が搾取する資本主義にかわり

社会主義を成立させようとする社会主義運動高まり、

 

七月王政打倒に一役買ったのです。

 

東方問題の失敗

 

東方問題とは、

弱体化したオスマン帝国領を奪い取ろうとする

ヨーロッパ列強の争いのことです。

 

エジプトとオスマン帝国(トルコ)とが対立して

エジプト=トルコ戦争(1831~33、1839~40)が起きた際、

 

フランスはエジプトを支援して

その見返りにエジプトから利権を奪おうを目論んだのですが、

 

フランスは外交でしくじって孤立化します。

 

結局エジプトはオスマン帝国に敗れ、

フランスのエジプト進出計画は頓挫しました。

 

この失敗により、七月王政へのフランス国民の不満

さらに高まりました。

 

選挙法改正運動

 

制限選挙制に不満だったのは労働者だけではありません。

 

産業革命により成長した中小の産業資本家も、

選挙権がありませんでした。

 

なんと七月王政では、

国民の1%以下しか選挙権がなかったのです。

 

マロ
マロ

ブルボン復古王政の選挙制限は

どんだけキツかったんだにゃ・・

 

「俺らくらいの力があれば選挙権くらいもらって当然だろ!」

資本家は資本家で不満があったのです。

 

二月革命

 

選挙法改正のため、

改革宴会という全国組織が生まれます。

 

この改革宴会が政府につきつけた選挙法改正要求

ギゾー内閣拒否すると、

パリで暴動が発生し(1848.2)、ルイ=フィリップは亡命

新たに臨時政府がうまれました(二月革命)。

 

第二共和政(1848~52)

 

二月革命によりうまれた第二共和政

極めて短命です。

 

まず最初の半年はグダグダでした。

 

ここでも資本家VS労働者の対立、

すなわち

資本家などの穏健な共和主義者VS労働者などの社会主義者

という対立がありました。

 

前者の代表者はラマルチーヌで、

 

一方、後者の代表者ルイ=ブラン

男性普通選挙、言論・出版の自由

など労働者寄りの政策を示しつつ、

労働者の地位向上のため国立作業場も設立しました。

 

この対立は、選挙に持ち越されました。

 

ヤマ
ヤマ

さて、ここでクイズです。

資本家側と労働者側、どちらが選挙で勝ったでしょうか?

 

 

 

 

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正解は、資本家側の勝利です。

 

社会主義化によって土地を失うことを恐れた農民

反労働者側=資本家側についたためでした。

 

この敗北後、さらに、

失業者に働き口を提供するだけの存在になっていた

国立作業場の閉鎖が決まります。

 

これを受けて労働者は

六月暴動をおこすも、失敗しました(1848)。

 

その後、穏健共和派の路線で国内はまとまってゆきます。

 

そして1848年12月に、混迷するフランスを導くリーダーを決める

大統領選挙が行われました。

 

ここで当選したのが、なんと

あのナポレオン=ボナパルトの甥である

ルイ=ナポレオンだったのです。(1848)。

 

次号、フランス史⑪帰ってきたナポレオン編!

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