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【世界史】中国史をマンガみたいに超速攻略!⑨(明編②)北虜南倭と明滅亡編

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今回は絶体絶命の明編②です。

 

北虜南倭

 

明はいろんなものに苦しみますが、

それを一言であらわす言葉が、

「北虜南倭」です。

 

北虜

 

1449年、大事件がおきます。

 

オイラトのエセン=ハンがモンゴル総動員で南下し、

明軍を土木堡(どぼくほ)全滅させ、

明の正統帝を捕虜にしてしまいました。

 

明はなんとか和睦までこぎつけて

正統帝を奪還しますが、

 

正統帝の復位にともなう皇位争いやら

長城の補修やらでゴタつきます。

 

ヤマ
ヤマ

現存の万里の長城🏰はこのときのものです。

 

南倭

 

南方では、倭寇という海賊が暴れまわります。

 

「倭」とは、そう。

我らが日本人のことです。

 

彼らは洪武帝のころにもいました(前期倭寇)。

 

そのときは、

倭寇対策を洪武帝から求められた足利義満が、

明に気に入られれば

朝貢貿易で巨利が得られると考えて、

 

勘合の有無で

正式な貿易船と倭寇とを区別させた(勘合貿易)ため、

明の海禁政策もあり、

なんとか鎮静化します。

 

問題は後期倭寇

 

取締役である室町幕府の衰退と、

海禁政策の厳格化に不満を持った中国人

日本人と結託したことにより、

 

密貿易海賊行為のオンパレードとなってしまい、

明は海禁政策をゆるめざるを得ませんでした。

 

禁が緩まったことで民間貿易(明のコントロール外)もおこなわれ、

朝貢体制(明による貿易コントロール体制)は動揺します。

 

そしてこの動揺に拍車をかけたのが、

「世界の一体化」というビッグウェーブ🌊🌊の最中で

国際商業がさかんになったこと、

 

すなわち

「中華王朝」「朝貢国使節」という朝貢貿易プレイヤー

以外の貿易プレイヤー

続々と登場したことでした。

 

明後期の社会

 

社会経済においては、

発展もあれば混乱もあるという状況でした。

 

商工業の発達

 

明代にも、

大土地所有と佃戸制とは

江南を中心に存続します。

 

この江南の長江下流域は、宋以来、

蘇湖(江浙)熟すれば天下足る

とされるまで発展したのでした。

 

しかし、豊かすぎるというのも考えもの。

その分、王朝はそこから重税💰を巻きあげようとしたのです。

 

そのため、増税分をまかなう副業として

綿織物や絹織物がさかんになり、

 

その原料である綿花

蚕のエサとしてのの栽培もさかんになります。

 

この副業、実はメチャクチャ儲かるということが

次第に明らかになったため、

 

長江下流域は

農民の多い穀倉地帯から

手工業者の多い手工業地帯に変わりました。

 

こうして、長江下流域にかわり、

湖広を中心とする長江中流域

新たな大穀倉地帯となり、

 

「湖広熟すれば天下足る」

といわれるようになりました。

 

手工業としては、織物のほか、

景徳鎮の陶磁器などの商品も大量生産され、

 

ポルトガル・スペイン商人

をつうじて世界中へ輸出されました。

 

中国国内では、

華北の山西商人や華中・華南の州商人が、

特権商人(塩の販売を公認された)

として活躍します。

 

さらには、

同郷・同業の商人が連帯するための

会館・公所という共同施設も各地につくられました。

 

マロ
マロ

マロも猫専用🐈の会館・公所をつくるにゃ

 

こうして豊かになった商人は、

都市に住んだまま地方の大地主にもなりました(城居地主)。 

 

税制改革

 

倭寇はによる討伐と

豊臣秀吉による取り締まりで根絶しますが、

いまさら海禁政策を厳しくすることもできず、

緩んだままでした。

 

そこで、中国商人は東南アジアに進出し

中国人町をたてました。

 

また貿易がさかんになったことで、

日本銀メキシコ銀

(フィリピンのマニラを拠点とした

スペインアカプルコ貿易による)が大量に流入しました。

 

これに商工業の発展も加わって、

による貨幣経済がどんどんどんどん浸透しました。

 

もともとは紙幣の交鈔

あいかわらず流通していたのですが、

銀の勢いに負け、交渉の価値は下落しました。

 

すると官僚は「銀で俸給ちょーだい!」と騒ぐように。

 

官僚に銀をあげるには、

そもそも国家が銀を持ってないといけないので、

租税や労役を銀で代納させるようにチェンジします。

 

こうしてあらゆる税を一本化して銀納させる、

一条鞭法という

めちゃくちゃ画期的なシステムが導入されました。

 

マロ
マロ

今は当たり前のように

税をお金一本で納めているけど、

 

もし穀物やら生糸やら

いろんなもので納めさせられたら大変だにゃ・・

 

よく考えれば今は便利な世の中だにゃ

 

農民の抵抗

 

この素晴らしい一条鞭法、

ひとつ大きな欠陥があることに気づきましたか?

 

そう、

農民がたくさんの銀をどうやって手にいれるの??

ということです。

  

多くの農民たちは、

「銀の交換レート??なにそれ??」

という右も左もわからない状態でしたので、

銀を売る商人や高利貸しボッタくられまくります。

 

くわえて、先述のように、

とくに江南では大土地所有と佃戸制が存続しており、

 

地主はますます強大になり

郷紳とよばれるようになる一方、

佃戸は苦しみます

 

この苦しみが爆発し、

鄧茂七の乱などの

抗租運動小作料減免をもとめる運動)

が多発しました。

 

明の末路

 

一条鞭法には、もう一つの目的がありました。

 

それは、財政の安定化です。

 

というのも、

明は北虜南倭にくわえ、

 

朝鮮半島中国東北部でも戦争がひろがり、

そのうえ里甲制が崩れてきて徴税がうまくいかなくなり、

 

財政難になっていたのです。

 

 

そこで、万暦帝内閣大学士(皇帝顧問)であった

張居正が、

全国的な検地をおこなったうえで、

一条鞭法を全国的に普及させました。

 

彼はまた、

タタールアルタン=ハンとの講和もします。

 

張居正のおかげで明はだいぶ持ち直すのですが、

張居正死後に万暦帝は

「しーーーーーーーらね!⭐」

とばかりに贅沢三昧。

 

豊臣秀吉の朝鮮侵略女真族の南下、農民反乱もあって、

明はまた動揺します。

 

そんななか政界はというと、

 

反体制派官僚・顧憲成東林派

VS体制派官僚・魏忠賢宦官非東林派

 

に分かれ、地獄の政争を繰り広げておりました・・。

 

ヤマ
ヤマ

東林派の由来は、

顧憲成が拠点とした東林書院です。

 

ちなみに、

魏忠賢は皇帝を操り恐怖政治をした

最悪の宦官として、

ある意味名高いです。

 

・・・はい、もう何度も見てきた

王朝末期あるあるの流れですね。

 

そして、女真族ヌルハチとの戦いの中で、

明は空中分解し、

ゴッチャゴチャのグッチャグチャに。

 

ついに、

農民反乱のリーダー李自成により、

1644年、明は滅ぼされます。

 

 

次号、中国史⑩ 帰ってきた女真族!最後の中国王朝・清編!

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