今回は、
「聖賢・豪傑・盗賊」の三面をあわせ持つ
アメリカンドリーマー朱元璋による、
久々の漢族による中国統一王朝、明編です。

大した肩書きだにゃ・・
明(1368~1644)
朱元璋は貧農でしたが、
紅巾の乱のなかで成り上がり、
なんやかんやで大穀倉地帯の江南を手にいれます。
それによる経済力💰を武器にどんどんどんどん勢力拡大し、
ついに洪武帝として
明(都:金陵)をたてるまでに成り上がります。
まさにアメリカンドリーム。中国ですけど。
貧賤の身から一代で皇帝になったのは、長い中国史上でも、
彼と、あの前漢の劉邦(高祖)だけ。
豊臣秀吉もびっくりですね。
洪武帝は超大型巨人の元を駆逐して、
モンゴル高原に追いやり(北元)、
約250年ぶりに漢族による中国統一を成し遂げますが、
明は江南を根拠地に中国統一をした唯一の王朝です。
それだけ江南がリッチになったということでもあります。
三国時代の魏・蜀・呉のころには、
華北をおさえた魏が圧倒的でしたのに。
ちなみに洪武帝は北元も滅ぼしました。

厳密には、
「〇〇帝」という名前は死後におくられる称号です。
日本の天皇もそうですね。
ちなみに今の「一君主につき一元号」という
「一世一元の制」を始めたのは洪武帝です。
洪武帝の時代(1368~98)
ひさびさの漢族王朝だ!という民族意識を利用して、
宋をもしのぐ君主独裁体制をつくり、
①官②民③軍
すべてを徹底的にコントロールしようとします。
①官
実務を行っていた六部(吏・戸・礼・兵・刑・工)を
皇帝直属にするため、
これまで六部をコントロールしていた
中書省とその長官(丞相)を廃止しました。
また、皇帝の手足として
不正をチェックする組織(監察機関)として、
皇帝直属の都察院をおきました。
さらに朱子学(「上に従え!」理論)を官学としたり、
あの唐からずっと続いていた律を自己流にアレンジして
明律・明令を新たにつくります。
②民
民衆は、きちんと税💰を巻きあげるために(財政基盤の確保)、
きちんと把握し、きちんと教育しておく必要があります。
そこで洪武帝は、
まず全国規模の人口調査をして、
それをもとに里甲制🐢をはじめます。
これがまた良くできたシステム。
里甲をつうじて村の自治をさせて
徴税・治安維持をまかせるというもので、
ちゃんとした徴税には必要だけど、
広ーーい中国でつくるのは大変・・・である
租税台帳の賦役黄冊・土地台帳の魚鱗図冊🐟も、
現地の里甲に10年ごとにつくらせます。
つまり、村を行政の末端組織として利用したのです。
国のかわりに村自身が村を治めてくれるという
ラクちんシステムです。
また村の人格者を「里老人」👴として、
「六諭」という儒教(「上に従え!理論」)的な
6つの公式スローガンをつうじて、
里老人に民衆を教化させました。
こうして国内を徹底コントロールしたうえで、
外国に対しては、
①海外渡航禁止②民間貿易制限③朝貢貿易以外の対外貿易禁止の
三拍子そろった海禁政策をとります。
③軍
軍事コントロールのためにも
皇帝直属の五軍都督府をおきました。

行政の六部、軍事の五軍都督府、監察の都察院
をバラバラにおくことで、
行政・軍事・監察の三権を分立させた
という意味もあります。
(ただしすべて皇帝直属)
こうした中央組織のほか、
地方に対しても皇帝直属のもとで3組織をつくり、
三権分立としました。

皇帝直属のもと分立させることで、
(皇帝以外の)なにかが力を持ちすぎないようにすると。
独裁にはピッタリの大したシステムだにゃ・・
また軍人は軍戸として、
民間人(民戸)とは別に世襲させつつ、
兵農一致(兵士が自給自足する)の府兵制をもとに
衛所制をおこないました。

民戸はほぼ兵役をせずに済んだんだにゃ
よかったにゃ
建文帝の時代(1398~1402)
洪武帝は男子だけで26人もの子がいる
スーパービッグダディでした。
息子たちは、ごく一部の例外をのぞき、
(君主独裁ですから)実権のない王として、
各地に配置されました。

この例外とは、
北のモンゴル対策のために軍事権をもっていた、
北平の燕王などのことです。
超大型巨人はしぶといのです。
2代目として即位した建文帝は、
側近の意見により、
これら諸王を抑圧しました。
すると、
そのごく一部の例外であった北平の燕王朱棣に
クーデタをおこされます。
この、
「君側の奸をのぞいて帝室の難を靖んず」
(悪しき側近に騙されている皇帝を救うぞ!というタテマエ)
というスローガンを掲げた靖難の役により、
朱棣が永楽帝として即位します。
永楽帝の時代(1402~1424)
永楽帝は独裁をすこし緩めます。
まず宦官を重用し、また
皇帝の顧問として内閣大学士をおきました。
そして、しぶとい超大型巨人モンゴル対策として、
自分の本拠地の北平を北京と改称しつつ、ここに遷都したり、
(旧都金陵も南京と改称しました)
江南~北京の大運河や万里の長城を整えたりします。
外国にもバンバン進出します。
まず、超大型巨人の地モンゴル高原に親征し、
北元の滅亡と靖難の役のスキに台頭した
タタールやオイラトを撃退します。
ベトナムも陳滅亡のスキに一時支配します。
征服以外の目的でも進出しました。
東南アジア諸国に対し、
明の威勢を示して朝貢をうながすため、
鄭和に南海遠征をさせます。
明の朝貢世界
明は、
中華思想(「オレタチが世界の中心ダ!その他は野蛮人😤」という思想)
のもと、
「中国以外の国は属国として中国様に貢物をしろ、
徳の高い中国皇帝様はたくさんのお返しをしてやるからな😤」
という独特な形式の貿易(朝貢貿易)を
中山王尚氏の琉球、マラッカ王国、
室町幕府の日本、黎朝のベトナム(大越)
などいろんな国とおこないました。
とくに琉球は東シナ海と南シナ海とを結ぶ交易の要として、
マラッカはインド洋と東南アジアとを結ぶ交易の要として、
おおいに栄えます。
しかし、このイケイケ明帝国でも、
徐々に崩壊の足音が聞こえ始めます・・・
コメント