東アジア・中央アジア史 高校世界史

【世界史】中国史をマンガみたいに超速攻略!⑯中華人民共和国編

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長い長い中国史も、とうとう最終回です。

中国史だけで世界史の2割を占めますから、

そりゃあ長いです。

 

さて、前編でついに日本を追い出した中国ですが、

まだあの対決⚔が残っていましたね。

 

そう、蒋介石と毛沢東との最終決戦です。

 

中華人民共和国の成立

 

最終決戦

 

不平等条約が撤廃され、

国土も回復し、

国連の五大国の一員にまでなった中国では、

 

蒋介石と毛沢東が

内戦回避のため

まず双十協定がむすばれ(1945)、

ついで政治協商会議が重慶でひらかれます(1946)。

 

めでたしめでたし。

 

 

 

とはならず。

所詮二人は水と油

 

最終決戦⚔として、

全面的な国共内戦がはじまります(1946)。

 

反共のアメリカの支援もあり、

はじめは日中戦争前と同じく、

国民党の圧倒的優位でした。

 

しかし毛沢東には秘策がありました。

それが新民主主義論

 

俺の解放区では地主どもの土地を没収して農民に配ってやる

だからついてこい!!」

農民をひきつけ、

 

また、新民主主義によって

自分の革命をうまーく理論武装させたことで、

インテリブルジョワもひきつけます。

 

国民党支配地域のほうがインフレが酷かったこともあり、

徐々に共産党は盛り返します

 

このころ共産党軍が人民解放軍と改称されたことも、

うまーく大衆を操作しようとする意図がうかがえます。

 

そしてついに1949年、

中国全土を「解放」します。

 

敗れた蒋介石台湾に逃れ、

中華民国政府を維持しました。

  

建国

 

1949年、毛沢東は中華人民共和国(首都:北京)を成立させます。

 

主席が毛沢東で、首相は周恩来でした。

 

そして中国の主な勢力を結集させてひらいた

人民政治協商会議において、

「労働者階級を指導者とし、

反封建・反帝・反官僚資本のために皆で一緒に闘うぞ!」という

人民民主主義が示されます。

 

こうした中国において、

漸進的に社会主義への移行がはじまります。

 

つまり、①国家がすべてを管理して、

国民が平等になるようにします。

 

こうして、

地主から農民へと土地が移り、財閥企業は国営になります。

 

このときはまだ管理がユルかったのですが、

1952年に農工業生産が建国前の水準を上回ると、

ガチガチの管理がはじまります。

 

1953年には、

農業と手工業との集団化・社会主義的工業化をめざす

第一次五カ年計画が出され、

 

翌年には社会主義的な新憲法満場一致で採択されます。

 

マロ
マロ

満場一致・・・

 

米ソ冷戦のなか、

社会主義同士の中ソは接近

 

モンゴル人民共和国の中国からの独立を追認するかわりに、

対日本の共同防衛・中国への経済援助を約束する

中ソ友好同盟相互援助条約がむすばれました。

 

第一次五カ年計画も、ソ連の援助のもと進められます。

 

マロ
マロ

忘れてたけど、清も帝国主義で

モンゴルとかいろいろ支配してたんだにゃ

 

ピンチ・ピンチ・ピンチ!!

 

改革を急ぐ毛沢東は、

農工業を一気に同時発展させるという

大躍進運動をはじめます(1958)。

 

しかしあまりに実態に合わない目標のせいで、

前進どころかボロボロに。

 

かわりに劉少奇が国家主席となり、

改革をゆるめた「調整」政策がすすめられました(1961)。

 

この裏で中国は、さらなるピンチを迎えます。

それは中ソ対立です。

 

アメリカとの平和共存を図るソ連を中国は

修正主義(「この腰抜けが!」)と批判し、

 

頑なにアメリカ帝国主義との闘争を前提とする中国をソ連は

教条主義(「この石頭が!」)と批判します。

 

チベットダライ=ラマがおこした反中国運動の鎮圧の際に

中国がインドと衝突すると、ソ連はインドを支持したり(1959)、

 

「大躍進」のせいで起きた経済混乱の真っ最中に、

ソ連が経済援助を破棄したり(1960)、

 

キューバ危機でのソ連の譲歩や部分的核実験停止条約

中国が修正主義だと批判したりして、

 

とうとう中ソの公開論争へ発展します(1963)。

 

こうして社会主義諸国で孤立大ピンチの中国ですが、

 

核保有国となったり(1964)、

アジア・アフリカ諸国に接近したり、

アメリカからの自立をはかるフランス外交関係を樹立して(1964)、

徐々に盛り返します。

 

文化大革命

 

せっかちな毛沢東は中国を急進主義に戻らせるため、

 

「あいつらは資本主義の道を歩む実権派だ!」

として、林彪りんぴょうと組んで

劉少奇・鄧小平を追い出します(1966)。

 

マロ
マロ

資本主義の実権派??

つまり・・どういうことだにゃ・・?

  

ヤマ
ヤマ

つまり、

「いま実権をにぎっている劉少奇みたいなヤツらは、

本来急進的にすすめるべき社会主義を忘れ、

本主義寄りの「調整」にった裏切り者だ!」

というように、

 

実権を失っていた毛沢東が、

代わりに実権をにぎっていた人たちを

「実権派」と称して批判したのです。

 

「実権派」以外にも、「本にる」

という意味で「走資派」とも呼び、罵倒しました。

 

 

こうして再び好き放題できるようになった毛沢東は、

悪名高い「(プロレタリア)文化大革命」をはじめます。

 

焚き付けやすい若者を集めて紅衛兵を組織し、

急進的社会主義に合わないとみなした

文芸・学術を破壊しつくしたのです。

 

これにより、多くの党官僚・知識人も犠牲となりました。

 

それから

 

毛沢東はついに、後継者だった林彪も排斥します(林彪事件)。

 

この後、

毛沢東とその夫人の江青VS周恩来・鄧小平

の構図になりますが、

 

周恩来の死、天安門事件、毛沢東の死を経て、

 

華国鋒首相が

江青ら「四人組」の文革派を逮捕して

クーデタに成功します(1976)。

 

こうしてようやく長い暗闇を抜けた中国では、

華国鋒(任1976~80)のもと、

農業・工業・国防・科学技術

「4つの現代化」が推進されます。

 

1980年代には、人民公社解体・経済特区の設置など、

農・商・工での自主化がすすみます。

 

こうして経済改革は進展したものの、

政治体制は改革されませんでした。

 

1989年には天安門広場に集まった学生・労働者を

政府が人民解放軍により武力弾圧するという

天安門事件がおきます。

 

国際的な批判にさらされた中国は、

自由主義・資本主義的な開放政策を導入しつつも

共産党支配はしっかりと温存するため、

社会主義市場経済へ移行しました。

 

そして最後に、昔懐かしの租借地についてです。

1997年には資本主義制度を残したままイギリスから香港が、

1999年にはポルトガルからマカオが返還させました。

 

 

おつかれでした!これでみなさんは世界史の2割を攻略したことになります。

ひきつづきバシバシ攻略していきましょう!

ヤマ

 

マロ
マロ

マロと一緒にがんばるにゃ

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