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【世界史】中国史をマンガみたいに超速攻略!⑮世界大戦編

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長かった中国編も残りわずか

 

今回は世界大戦期の中国史を攻略します。

 

このときの状況を一言でいうと、 

抗日のもとでの、国民党と共産党との離合集散

です。

  

二人の遺産

 

袁世凱の遺産

 

袁世凱は最後にとんでもないものを置き土産にしました。

それは、対華二十一カ条要求です。

 

これは、第一次世界大戦でヨーロッパが

ハチャメチャになっているスキに、

日本が袁世凱に無理やり承諾させた、

 

山東省の旧ドイツ権益の継承、

旅順・大連の租借・南満州鉄道利権の期限の99カ年延長、

鉄・石炭の権益

 

などなどの欲張りセットです。

 

この二十一カ条要求の撤廃を、

中国は1919年パリ講和会議にて求めるも、

案の定却下されます。

 

すると、

日本やヴェルサイユ条約に調印した政府に対する

抗議デモが、北京大学生を中心に拡大し、

 

日貨排斥やストライキをふくむ、

反帝国主義と軍閥政府打倒を訴える

五・四運動に発展します。

 

やむなく軍閥政府は大幅に譲歩し、

ヴェルサイユ条約調印拒否などを声明して、

五・四運動を鎮静化させました。

 

巨星堕つ

 

不運つづきの孫文に、

うれしい誤算が生まれます。

 

それは、

ロシア革命(1917)により成立していた

ソヴィエト政府が、1919年、

 

「帝政ロシアが中国にもっていた

帝国主義的特権をすべて放棄して、

平等の立場で民族運動を支援するよ」

 

と手を差し伸べてきたのです(カラハン宣言)。

 

これに力をえた孫文は、

五・四運動で発揮された、

懐かしのZ戦士・義和団さながらの

民衆運動の圧倒的パワーを鑑みて、

 

もともと秘密結社的だった中華革命党を、

広く大衆に立脚した公開政党にするため、

中国国民党と改称します。

 

一方、このころ第二の革命派が生まれていました。

陳独秀中国共産党が、

コミンテルン共産主義者の国際組織)の指導の下に

上海で結成されたのです。

 

大器・孫文はソ連やコミンテルンのコンサルにより、

この共産党も含めた

全ての革命勢力を国民党のもとに結集させることとします。

 

こうして、

「連ソ・容共・扶助工農」の三大政策をかかげ、

共産党員が個人の資格で

国民党に入党することを認めました(第一次国共合作)。

 

こうして急成長した中国国民党を遺し、

孫文は志半ばにして病死します。

 

遺言の「革命いまだ成功せず」はあまりにも有名です。

 

北伐と国共分離

 

国民党(蒋介石)

 

反帝国主義運動は変わらず盛んで、

五・三〇事件省港ストが発生しました。

 

このように民族意識が高揚するなか、

国民党は広東国民政府を樹立し(1925)、

 

革命のために軍閥政府を打倒しようと、

孫文の遺志を継いだ蒋介石ひきいる

国民革命軍を起こします(北伐)(1926)。

 

北伐軍は南京・上海などなどを占領しますが、

その矢先、早くも内部分裂がおきます。

 

それは、

共産党・国民党左派VS国民党右派・蒋介石

でした。

 

ただ、浙江財閥などの民族資本家や

中国に利権を持つ列強は、

共産党を警戒して蒋介石寄りだったので、

 

蒋介石は上海クーデタをおこし、

左派を虐殺・一掃して

南京国民政府を樹立します(1927)。

 

こうして孫文の遺産である

第一次国共合作は早くも解消されました。

 

そして北伐も再開されます(1928)。

 

途中、強力な統一政権が中国にできることを嫌った

日本田中義一内閣が、

何度も山東出兵をして北伐の妨害をします。

 

しかし、奉天派の張作霖を破り北京に入ったことで、

北伐は完成します(1928)。

 

ただこのとき、張作霖は満州にむかう列車を

日本の関東軍に爆破され、死亡します(張作霖爆殺事件)。

 

その子・張学良は、

父の仇!!抗日のためなら!と国民政府に合流したため、

蒋介石は一応の中国統一を達成します(1928)。

 

共産党(毛沢東)

 

一方、上海クーデタで一掃されてしまった、

国共分離後の共産党はといえば、1927年、

 

労働者・農民主体の新しい共産党軍(紅軍)のもと、

南昌で武装蜂起しますが、国民党に敗れます(南昌蜂起)。

 

一方、地主から土地を没収して貧農に配分する土地改革をかかげて、

農民の心をつかみます。

 

こうして紅軍が成長すると、

あの毛沢東

井崗山せいこうざんソヴィエト政権を樹立します。

 

そして華中・華南で増大したソヴィエト地区をまとめて、

中華ソヴィエト共和国(首都:瑞金主席毛沢東

が樹立されます(1931)。

 

国共対立

 

蒋介石は中国統一後、

つぎつぎと軍閥系の地方実力者を制圧します。

 

加えて、地道な交渉の末、

関税自主権をほぼ回復します(1930)。

 

そして、混乱した通貨制度の統一のため、

ポンドと連動させた法幣を法定通貨とし、

さんざん中国を苦しめた銀を禁止します。

 

こうして基盤を固めていた蒋介石は、

抗日<国内統一

という方針でした。

 

それを最後に阻んだのが、

中華ソヴィエト共和国でした。

 

蒋介石はこれに猛攻をしかけます。

この際、毛沢東は失脚します。

 

耐えかねた紅軍は1934年、

延安まで大敗走し(いわゆる「長征」)、

この危機の中で、毛沢東も復帰します。

 

マロ
マロ

逃げ

と覚えるにゃ

 

第二次国共合作

 

第三の男

 

1931年といえば、そう、満州事変ですよね。

 

日本の華北侵攻に対し、

学生などによる抗日運動が全国拡大しました。

 

このなかで共産党も、

内戦停止して、抗日民族統一戦線を組もうよ!」

というなんとも虫のいいことを言います(八・一宣言)が、

蒋介石は却下

 

しかしここで出てくるのが、

父を日本に爆殺された、

あの張学良でした。

 

「父の仇の日本を倒すためならば何でもするぞ!!」

と息巻く張学良。

 

ちょうどその時、

最後の最後というところまで

共産党を追い詰めた蒋介石が、

この期に及んで共産党総攻撃に応じない張に、

「いや、なにやってんの!?」と討伐催促にやってきます。

 

張学良はこの機になんと蒋介石を監禁!

目を血走らせながら

「内戦停止!!!!一致抗日!!!!」

と訴えます(西安事件)。

 

「うん・・わかったよ・・」

と蒋介石は反共の態度を軟化させました。

  

日中戦争

 

1937年の七夕の夜、

日本軍と中国軍は軍事衝突します(盧溝橋事件)。

 

これを皮切りに日本軍は怒涛の勢いで、

北京・天津

ついで上海までも7月中に占領します(第二次上海事変)。

 

この大ピンチのなかで、とうとう

第二次国共合作が実現します。

 

この日中戦争は日本のペースで始まりますが、

米ソの支援を受けた中国国民政府も粘り強く

 

首都南京を占領されても、

漢口、重慶へと奥地に遷都しながら逃げ延びつづけます。

 

この間おきたのが、あの南京事件です。

 

この日中戦争は、

国民政府との和平交渉を日本が放棄したことで決定的に泥沼化

 

蒋介石と対立して国民党を離脱した汪兆銘

親日政府(首都:南京)をつくるも、

当然中国国民からは支持されませんでした。

 

この結末はみなさんご存知の通り。

日本の太平洋戦争敗北により、

日中戦争も終結しました。

 

次号、残された最後の対立!中華人民共和国編

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