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【世界史】中国史をマンガみたいに超速攻略!⑫(清編③)太平天国、清仏・日清戦争編

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今回は、斜陽の清をおそうさらなるトリプルパンチ👊

 

太平天国の乱・清仏戦争・日清戦争

 

を攻略します。

 

マロ
マロ

実質クインティプルパンチ👊だにゃ

 

太平天国の乱

背景

     

じつはアロー戦争の裏で、

これまたとんでもないことが起きていました。

それが、太平天国の乱(1851~64)です。

 

アヘン戦争後のアヘン輸入賠償金支払いのため、

銀が大量流出します。

 

これによって銀はどんどん希少となり、

定額銀納の地丁銀は、

実質的な負担額が増大します。

 

さらにここに天災が加わって、

王朝がボロボロなら国民もボロボロ

という有様になりました。

 

そんなとき、民衆の支持をあつめて拡大したのが、

洪秀全による太平天国👼でした。

 

展開

 

洪秀全は科挙に何度も落ちました。

 

苦悶の毎日を過ごす中、洪秀全、倒れます。

 

おしまい。

 

 

 

とはならず、病床に伏していたある夜、

キリストから剣を授けられて悪魔と戦う

という夢をみます。

 

これにより洪秀全は、

「あ、俺はキリストの弟なんだ」

と確⭐信し、

キリスト教的宗教結社の拝上帝会をつくります(1843)。

 

やがて広西省金田村に信徒を集めて

太平天国をたて、

天王と自称します。

 

「弱きを助け強きをくじく」の精神を持った太平天国は、

大勢の貧農・流民をひきつけ

巨大化します。

 

そしてついに、

「滅満興漢」(満州人の清を滅して漢人国家をつくる)

というスローガンのもと、

辮髪を断って清朝打倒を宣言します。

 

そして、腐敗した清正規軍を破り、

とうとう南京を占領して首都とし、

天京と改称します。

 

こうして人類のユートピア👼として始まった太平天国は、

 

絶対的な万人平等を内容とする

天朝田畝でんぽ制度のもと、

纏足てんそくアヘン禁止します。

 

マロ
マロ

猫もふくめろにゃ

 

結末

 

太平天国は1855年をピークに

内紛により衰えはじめつつも、

 

ダメダメな清正規軍をそっちのけに、

 

漢人官僚のひきいる郷勇漢人による地方義勇軍)

と激闘をくりひろげます。

 

メインの郷勇は、

曾国藩の湘軍・李鴻章の淮軍・左宗党の楚軍

でした。

 

このころ列強はといえば、

はじめはキリシタンの太平天国に同情的だったものの、

 

アロー戦争で清を屈服させてからは、

列強はこう考えるようになりました。

 

民族主義で盛り上がっていて、

中国一体になって列強を締め出す母体になりうる

太平天国を野放しにするよりは、

 

骨抜きにできた清朝を生き延びさせて

利権を吸い尽くしたほうがトクじゃね👿」と。 

 

そこで列強は清に加勢し、

アメリカ人ウォード

その戦死後はイギリス人ゴードンが傭兵を率いた

常勝軍をおくります。

 

こうして太平天国は追い詰められ、

洪秀全は再び病床に伏します

 

そしてこんどこそ

おしまい。

 

1864年、洪秀全の病死直後に

太平天国は滅びました。

 

影響

 

反乱平定をめぐって、

清朝・清正規軍の無力ぶりがバレます。

 

一方、

活躍した漢人官僚たちは中枢に進出し、

洋務運動を展開します。

 

同様に、

このとき地方長官に軍・財・政がゆだねられたことで、

地方分権の流れがはじまります。

 

また反乱そのものは失敗したものの、

巨大な民族運動の原点として、

かの孫文毛沢東などにも影響をあたえました。

 

洋務運動

 

展開

 

ここで大清帝国、とうとう立ち上がります。

 

アロー戦争敗北をうけ、同治帝(1861~74)の清朝は、

いままでの

「清が世界の中心なんじゃ!蛮族どもは跪けぃ!」

といコテコテの排外主義から脱し、

 

富国強兵のために、

西洋の先進技術を摂取し、近代産業を育成しよう✨」

という洋務運動をはじめます。

 

これを主導したのが、

郷勇のリーダーでもあった、

漢人官僚曾国藩・李鴻章・左宗党

でした。

 

こうして、

近代的兵器工場・海軍・紡績工場・汽船会社・鉄道外国語学校

をつくったり、

電信事業・鉱山開発もすすめられました。

 

ちょうどこのころは列強の進出も一段落し、

「同治中興」

という(つかの間の)安定期がうまれます。

 

問題点

 

しかしこの洋務運動、根本的な問題点がありました。

 

それを一言でいうと、「中体西用」

 

つまり、

中国の伝統的な政治体制・社会・道徳観は温存したまま、

西洋の科学技術を利用するだけの

表面的な近代化にすぎなかったのです。

 

要は、中途半端だったのです。

 

また、国家・官僚主導の「上からの」改革だったため、

設立されたのは

営業独占権により民間のジャマをする官営企業ばかり。

 

さらに、企業と癒着した官僚が、「洋務運動」という名目で

私腹を肥やしてもいました。

 

マロ
マロ

こりゃダメにゃ

 

こうして洋務運動は、中途半端なままに終わり、

これから述べる2度の敗戦によって挫折したのでした。

 

属国の喪失

 

清は属国(のつもりだった)ベトナム朝鮮

つぎつぎに失います。

 

マロ
マロ

せっかく洋務運動したのににゃ

 

清仏戦争

 

属国(のつもりだった)ベトナムを保護国とした

フランスに清は抗議し、

清仏戦争(1884)がおきます。

 

しかし案の定、清は敗れ、

天津条約(1885)によって、

フランスのベトナム保護権を清は認めます。

 

ちなみにこのとき、

太平天国の残党である

劉永福黒旗軍が、

清に加勢してフランスを苦しめました。

 

日清戦争

 

背景

 

属国・朝鮮には、日本が迫ります。

 

日朝修好条規(1876)という

日本に有利な不平等条約がむすばれると、

李鴻章を中心に清も宗主国として干渉します。

 

こうして日清対立が深まるなか、

壬午軍乱(1882)で清・朝は接近します。

 

この後、清仏戦争(1884)のスキに

朝鮮で親日派(独立党)が親清派(事大党)に対する

クーデタをおこします(甲申政変)。

 

しかしこれは失敗し、

日清間に天津条約(1885)がむすばれ、

 

①日清の朝鮮からの共同撤兵

出兵時の事前通告

 

が約され、日本勢力は後退します。

 

マロ
マロ

いっつも「天津」条約だにゃ

 

ヤマ
ヤマ

「天津条約」は

アロー戦争・甲申政変・清仏戦争

3回において結ばれたよ。

 

開戦

 

1894年、甲午農民戦争が朝鮮でおこると、

その鎮圧のため、

朝鮮からの要請に応じて清が出兵します。

 

すると、日本も清に対抗して出兵し、

日清戦争(1894)がおきます。

 

結果はご存じのとおり、

清は日本にもボロ負けしてしまいます。

 

講和

 

こうして結ばれた下関条約(1895)は、

 

朝鮮の独立(清は宗主権を放棄

台湾・澎湖諸島・遼東半島の割譲

賠償金(2億両)

沙市・重慶・蘇州・杭州の開港と

開港場での企業経営の承認

片務的最恵国待遇

 

を内容としていました。

 

影響

 

清はじつは列強から、

「なんだかんだいっても清は大帝国だし、

近代化して本気出せば強いんじゃね?」と、

「眠れる獅子」🦁💤として潜在能力を恐れられていました。

 

しかし、洋務運動をした上でさらに

極東の小国日本に惨敗したことで、

 

「べつに実は本気出せば強いなんてことないじゃん」

と、清の弱さがバレてしまいます。

 

こうして列強の中国侵略は加速しました。

 

清内部でも、洋務運動よりももっと根本的な、

政治体制そのものの変革が必要だ

という機運が高まり、

変法運動へとつながります。

 

ちなみに日本との間には、

1896年にさらに日清通商航海条約がむすばれ、

関税自主権喪失領事裁判権

日本にも認めさせられます。

 

 

次号、さよなら清朝!四散した獅子編

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