東アジア・中央アジア史 高校世界史

【世界史】中国史をマンガみたいに超速攻略!⑩(清編①)

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今回は殷から明まで山のように⛰⛰⛰あった

王朝も今回で最後

 

マロ
マロ

長い旅路だったにゃ・・

 

最後は、「中国」を一気に拡大させた

「中華人民共和国」の原型、

「清」です。

 

というのも、

明以前は「中国」といえば、

華北+江南を指しました(現代日本の約10倍の面積)。

 

しかし、

清は満州を本拠地に中国を併合し、

さらに

内モンゴル、東トルキスタン、チベット

をも併合したので、

「中国」の面積は約3.5倍にも膨れ上がります。

 

ちょうどこの清末のタイミングで中国は近現代を迎えたので、

ちょっとだけ清の最大領域よりは後退したものの、

 

現代の中華人民共和国は、

伝統的な「中国」の約2.5倍もの面積(現代日本の約25倍)を

領土としているのです。

 

清成立の前夜

 

この清をたてたのは、

あの懐かしの王朝をたてた、

女真族です。

 

この清の繁栄の立役者となったのが、

6名の綺羅星のごとき君主たちでした。

 

そのうち、清成立以前の君主は、

ヌルハチホンタイジ

です。

 

ヌルハチは中国東北地方(満州)を統一し、

いわゆる後金を建国します。

 

ヌルハチの時代(1616~26)

 

軍事・行政・社会組織として、

八旗を編制し、

八旗に属する人(旗人)に

土地(旗地)の他いろんな特権をあげました。

 

満州文字もつくり、

満州をグングンまとめあげました。

 

後金の拡大に驚嘆したが攻めてきましたが、

これも撃退します。

 

ホンタイジ(太宗)の時代(1626~1643)

 

ただ、なんだかんだで明はしぶといです。

ホンタイジも明を滅ぼせませんでした。

 

曲がりなりにも

正統帝が捕らえられた土木の変から200年続いたので、

芯の強い国ではあったのです。

 

 

この明を滅ぼすため、

ホンタイジはある奇策を用います。とんでもない計画をたてます。

 

それは、満州から直接攻めるのではなく、

いったんモンゴル高原をグルっと迂回してから明を攻める計画です。

 

そして、1635年には

内モンゴルのチャハル部を平定します。

 

このとき、「皇帝の象徴」である

玉璽というアイテムをゲットしたホンタイジは、

 

1636年、皇帝となり(太宗)、

国号を(1616~1912)に改めました。

 

清(1616~1912)

太宗の時代

 

太宗はまず、

明の朝貢国であった朝鮮を服属させ、

モンゴルを平定します。

 

そして基本制度は明の真似をして、

六部(行政)都察院(監察)もつくります。

 

また勢力拡大に伴い、

藩部(満州・中国内地以外の征服地)をコントロールする

理藩院をつくったほか、

 

八旗(軍事)も拡大し、

満州八旗のほか

蒙古八旗・漢軍八旗もつくります。

 

こうして清のベースを築いた太宗は、

奇しくも明滅亡(1644年)の前年に没しました。

 

順治帝の時代(1643~61)

 

李自成が明を滅ぼすと、

長城の山海関にいた呉三桂は清に投降し、

清を長城内に導き入れます(「入関」)。

 

順治帝は呉三桂のような、

明から投降した漢人武将を利用して

中国をほぼ平定しました。

 

その後、旧明軍の漢人部隊を

緑営という常備軍に組織して、

中国内の治安維持にあたらせました。

  

康熙帝の時代(1661~1722)

 

大清帝国の拡大

 

康熙帝はなんと60年以上も皇帝をつとめました。

 

飼い犬🐶に手を嚙まれることをおそれた康熙帝が

三藩を取り潰そうとしたため、

1673年に三藩の乱がおこりますが、

苦戦の末、鎮圧します。

  

一方、鄭成功台湾オランダから奪い、

そこを拠点に反清運動をしていましたが、

 

康熙帝は1683年にこの鄭氏も滅ぼして、

中国史上初めて台湾を領土とし、

中国全土を平定しました。

 

破竹の勢いの清ですが、

ここでおなじく超大国の帝政ロシアとぶつかります。

 

ヤマ
ヤマ

ロシアは欧州では後進国だったこともあり、

海外植民地をもてませんでした。

 

そのため強敵のいないシベリアを開発しようと、

ひたすら東進します。

そこで、清とぶつかりました。

 

巨人VS巨人の戦いは、

ひとまずドローとなりました。

 

1689年、康熙帝はロシア皇帝ピョートル1世

ネルチンスク条約をむすび、

国境を外興安嶺とアルグン川として、

国境貿易も取り決めます。

 

これは清にとって初めての外国との対等条約で、

ロシアの南下は阻止されました。

 

康熙帝、まだまだ進撃し、

別の巨人も倒します。

 

外モンゴル・チベット・青海をも支配する

巨人・ジュンガル部を破り、

 

1696年には外モンゴル・青海を、

1720年にはチベットを獲得しました。

 

新たな税制

 

清は明の「一条鞭法」にかわり、

新たに地丁銀制をはじめます。

 

太平の世の中で人口増大すると、

康熙帝は1711年の成人数を基準として、

 

それ以降に増えた人口は盛生滋生人丁せいせいじせいじんていという

いかにもおめでたそうな名前を付けて、

人頭税の対象から外しました。

 

これにより、2つの良いことあありました。

 

まず1つは、

人頭税が払わずに済むように

あえて戸籍に登録されないようにしたため

こそこそ生きざるを得なかった人たちが、

 

堂々と戸籍に載ることができるようになり、

戸籍上の人口も飛躍的に増大しました。

 

2つ目は、

人頭税(清は丁銀とよんだ)の総額が固定化したため、

丁銀を地銀(土地税)にくりこんで一括徴収する

地丁銀制が成立し、

 

一条鞭法のときよりもさらに

便利かつ安定的になりました。

 

マロ
マロ

ところで「人頭税」って何にゃ?

  

ヤマ
ヤマ

「人である」ということが理由でかかる税金だよ。

納税能力に関係なく、全国民ひとりひとりに同じ額を課すんだ。

 

マロ
マロ

猫でよかったにゃ

 

雍正帝の時代(1722~35) 

 

外モンゴルを得たことで再び国境が接したロシアと、

1727年に雍正帝キャフタ条約をむすび、

国境や交易場について取り決めました。

 

一方、新たな最高決定機関として

軍機処を設置しました。

 

乾隆帝の時代(1735~95)

 

大清帝国の完成

 

つづく乾隆帝はさらに、

ジュンガル部や東トルキスタンの回部ほいぶを征服し、

ここを新疆しんきょうと名付けます。

 

こうして藩部は、

内外モンゴル・東トルキスタン(新疆)・青海・チベット

にまで拡大しました。

 

この広ーーーーーい藩部を統括するため、

乾隆帝は理藩院をおきました。

 

これにより清の統治スタイルは、

 

直轄地:中国内地・東北地方・台湾

 

理藩院が統括:内外モンゴル・東トルキスタン(新疆)・青海・チベット

 

属国:朝鮮・ベトナム・タイ・ミャンマー

 

となりました。

 

貿易

 

清の当初の貿易相手国は、

スペイン・ポルトガル・オランダ・イギリスなどでしたが、

 

18世紀の乾隆帝の頃になると、

イギリス(東インド会社)

中国貿易を独占しました。

 

中国→イギリスはおもに

生糸・陶磁器・茶

でしたが、

 

イギリス産のもので中国が欲しいものは

特になかったので、(悲しい・・)

を受け取りました。

  

これにより、明以来の銀流入にさらに拍車がかかりました。

 

乾隆帝はヨーロッパとの貿易にあまり乗り気ではなく

貿易を広州一港に制限したり、

朝貢貿易とおなじように数量を一方的に制限したり、

公行(少数の特権商人)に貿易管理を丸投げし、独占させます。

 

ヤマ
ヤマ

ほかの理由に、

康熙帝が「典礼問題」というイザコザを

ヨーロッパと起こしていたから、

というものもありました。

 

イギリス(東インド会社)はもっと

たくさん自由に中国貿易をして儲けたいので、

 

マカートニーアマーストを派遣して

貿易制限の撤廃をもとめますが、

失敗しました。

 

やがて乾隆帝は、

偉大なる康熙帝の在位期間を超えないように、

60年で退位します。

マロ
マロ

それでも十分長いにゃ・・

 

清の支配スタイル:「アメ」と「ムチ」

 

清は漢人を支配するために、

懐柔策(アメ)🍬と威圧策(ムチ)とを

巧みに使い分けました。

 

アメ

 

まず清は、

①広大な中国支配のため、

一部の漢人を支配層に組み入れて利用しつつ、

清が明の正当な後継者だと認めさせようとしたのです。

 

①のためには、満漢偶数官制をおこないました。

上級でも下級でも、官僚の半分は漢人にしてあげたのです。

 

モンゴル人と色目人とで上級官僚を独占した

のころよりだいぶ良心的ですね。

 

②のためには、

中国伝統の朱子学を官学にしたり、

おなじく中国伝統の科挙をさかんに行ったり、

皇帝自ら中国文化を積極的に保護したりしました。

 

マロ
マロ

清皇帝はいい人だにゃ

 

ムチ

 

一方、征服者の威厳を保つため、

風俗や②思想は厳しくコントロールしました。

 

①のためには、満州独特の大変ユニークなヘアスタイルである

辮髪べんぱつを漢人にも強制しました。

 

②のためには、

末に紅巾の乱をおこした、

あの白蓮教など、民間宗教を弾圧したり、

 

満州人排斥の要素がある図書を禁止(禁書)したりしました。

 

とくに酷いのは、文字の獄という筆禍事件が

何度もおきたことです。

 

ヤマ
ヤマ

ここでクイズ・文字の獄のコーナーです。

雍正帝のころ、

れ民のるところ」

という一節を科挙の試験に含めた人が、処刑されました。

どうしてでしょうか。

 

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正解は、「維・止」の2字は、雍正帝の「雍・正」

頭の部分を切り落としたものであり、

清王朝への反抗心の証だとみなされたからでした⭐

 

  

・・・ま、文字の獄はこんな感じのモノでした。

 

マロ
マロ

清皇帝は嫌なヤツだにゃ

 

 

まあ、いい人か嫌なヤツかは置いといて、

 

 

次号、忍び寄る影!大清帝国、斜陽の時

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